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笹倉及介の日記ブログ

他人の言葉と自分の言葉の違い

どうでもいい、特別なにもなかった日の積み重ねというのが結構重要だよなあと日々思っていたけれど、ハイペリオン (海外SFノヴェルズ)にそのことが書いてあって、嬉しかった。

サライの考え方によれば、人間の経験の本質は、華々しい経験――たとえば結婚式がそのいい例だが、カレンダーの日付につけた赤丸のように、記憶にくっきりと残る華やかなできごとにではなく、明確に意識されない瑣末事の連続のほうにあるのであり、一例をあげれば、家族のひとりひとりが各自の関心事に夢中になっている週末の午後の、さりげない接触や交流、すぐにわすれられてしまう他愛ない会話……というよりも、そういう時間の集積が創りだす共同作用こそが重要であり、永遠のモノなのだ。

誰かが代わりに言葉にしてくれることは、なんだか自分で言葉にするよりもしっくりくるのはどうしてだろう。
文章を書くセンスは、そりゃあ書くことが仕事であるそれ専門の人には適わないけれど、シロウトの言葉だって自分で言ったよりも響く。
何かに名前をつけるときに顕著だ。このブログの名前も、ちょくちょく変わっているけれど、どうにもしっくりくる名前が思いつかない。もうこのままでいいやーと思っているからこのままの名前なだけであって、気に入っているとは言い難い。それと違って他のブログの名前の素晴らしさと言ったら、センスの良いものがたくさんある。というより、自分のブログ以外、全部センスのある名前になっていると思うのだ。
電球は明るいけれど、別に電球は自身を照らしているわけではないということか?つまりお互いにそんなかんじで、僕の言葉が何処かの誰かの中でしっくりくることがあるということ?そうだったらいいんだけど。
僕が読書やネットが好きなのも、他人の言葉でできているからだと思う。