hakanashika

笹倉及介の日記ブログ

あたし彼女

いろいろと批判されたりネタにされたりしているケータイ小説ですが、先日読んでみました。「あたし彼女」という作品です。最近何かの賞を受賞して、話題になっています。

ぱっと見の文体が非常に印象の悪いものだったので、あまり読む気にはなれなかったのですが、食わず嫌いは良くないという考えで、強引に読んでみました。ケータイ小説を読むのは初めてです。

主人公のアキという女性は、僕とは違う文化圏の人なのだな、と思ったりもしながら、読んでいくとだんだん物語に引き込まれていきます。自分の中のアキがだんだん出来てきます。というか、だんだん自分がアキになってくるわけです。この小説はアキの主観で話が進むので、特徴のある(そして鼻に付く)文体はアキの思考なのだ、と解釈すれば不自然ではないし、口語をそのまま文章にすれば、あんな感じになるだろう。恋愛の話としてはありがちな話だけど、せつない恋心を描いた良い話じゃないか。

思うに、ケータイ小説を批判している人が本気を出してケータイ小説を読んだら、純粋にケータイ小説を楽しんでいる世代よりも深く読むことができるのではないのかな。たとえば、「愛してる」と小説に書いてあるとします。恋慕の感情を相手に伝えるとき、そのセリフしか知らない人と、他にいくらでも言い方を知っている人、どちらが小説に書いてある「愛してる」から読み取ることができるだろうか?僕は後者が多くのことを読み取ることができると思います。そして、後者はケータイ小説を批判している人たちのことです。より多くの小説を知り、多く人生を生きている人たちだ。
一言で言うと、「行間を読む力」だ。批判している人たちのほうが、楽しむことができるのです。ただ、内容や文体に対する嫌悪感が先に出てくるということだけだろう。

と、ここまで「あたし彼女」を読みながら思ったりしました。好意的な読み方をしていました。結構面白いじゃないか、と。しかし…
この小説では、一貫してアキの主観で話が進みますが、途中に一章だけ、アキの恋人であるトモの主観で話が進む所があります。
そこがオカシイ。駄目だ駄目だ。一気に許容できなくなった。
というのも、トモの主観になっても文体が一切変わらないのだ。男のくせに、「俺は もぉ」とか言うわけです。メールならまだしも、思考に「ぉ」を使っている男…。確かトモは会社でもかなり偉いポストに就いている高給取りで、頭も良い男のはずだ。そんな人間が、遊びほうけているアキと同じ文体なのだ。不自然すぎてもう駄目でした。

「行間を読む力」というのは、悪いところも読み取ってしまうから、だからケータイ小説は批判されているのかもしれない。悪いところが鼻について読めないほどだということだろう。

結局、トモの章でイライラしたので、あんまり楽しめませんでした。途中までは良かったんだけどなー。